酒蔵の母と娘。175年の伝統を未来につないでゆく、ある親子の物語

 

澄んだ水と空気、豊かな土壌で育まれた16の酒蔵を誇る酒どころ、新潟県長岡市。とりわけユニークな醸造の町「摂田屋」にある長谷川酒造は、江戸時代後期の天保13年(1842年)創業、175年の歴史を持つ蔵元です。

蔵元というと「男の世界」なイメージもあるかもしれませんが、同社の中心にいるのは、3人の女性たち──社長に代わって蔵を取り仕切る専務の長谷川葉子さん、営業部長として東京をベースに活動する長女の長谷川祐子さん、事務を担い、ふたりをバックアップする次女の比田井聡子さん。妻でもあり母でもある3人が、思いがけず足を踏み入れることになった酒造りの道は、決して平坦ではありませんでした。しかし、3人はそれぞれのやり方で先人から受け継いだ伝統を守りつつ、新たなプロジェクトにも積極的に取り組んでいます。独自のまなざしで日本酒の未来を切り拓く蔵元を訪ねました。  

夫の政界進出後、孤軍奮闘で蔵を守った母

 長谷川酒造・専務の長谷川葉子さん。最初は経理から、いまでは蔵の中にも入ります。

「私がここに嫁入りして41年になります。この庭はほとんど変わっていませんね。2004年の中越地震の後に、手水鉢とか、ちょっと動かしたくらいかしら」と笑う葉子さん。

 主屋左手の庭の入り口には狛犬が鎮座。

 奥には石像や石碑があり、風情が漂います。

「お嫁に来てしばらくは家のことだけをやっていたけれど、末娘の幸子が幼稚園に入るのを機に仕事に加わりました。最初はなにもわからず、なんのしがらみもありませんでしたが、小さな蔵ですから経理くらいは手伝おうと思って。もともと銀行員で数字は得意なんですよ(笑)。『酒蔵』というと独特なイメージがありますが、ひとつの商店と言ってもいいくらいの小さな会社です。

地酒ブームが去った後で売れ行きが落ち込む中、うちのような小さい蔵はもろに打撃となり、業界は非常に厳しい状況でした。いまもそう。新潟の地酒がもてはやされていた時代もありましたが、日本酒の消費量は少しずつ下降しています」

 「屋号は信州屋。信州からやってきた若者たちがここに移住して酒を販売したのが始まりです」

葉子さんが長谷川酒造の経営を任されるようになったのは、代表取締役社長を務める夫の長谷川道郎さんが国会議員となり、政界に入ったことがきっかけ。道郎さんの父・長谷川信さんも長岡市議、新潟県議、参議院議員を歴任し、海部内閣で法務大臣を務めた政治家でした。

「専務になったのは43歳のときです。主人が議員になり、仕事がすべてこちらに流れてきて、やらなきゃならないという事態になり、以来ずっと私ひとりでやってきました。当時は祐子が大学生、聡子が高校生、幸子が小学生で、私がここで働いていると幸子が家にひとりきりということも多々ありましたね」

 明治19年築の主屋は重要有形文化財。室内に掲げられたこの書は「法務大臣 長谷川信」と先代の署名入り。「一心」は純米酒の銘柄にもなっています。

10年以上会社をひとりで切り盛りしてきた葉子さんでしたが、いずれは娘さんのどなたかに任せようと思っていたのでしょうか。

「私が働く姿をずっと見てきた娘たちは、こんな大変な仕事は嫌だと思っていたでしょうね。私は継いでほしいとは考えていなくて。自分からやりたいと言うならともかく、こちらから頼んだことはありませんでした。主人も忙しく、ひとりで切り盛りすることに慣れていましたし、娘たちには、『外に出ていっていいよ。ここに縛られず、好きなことを見つけて自立して』と言っていました」

母の願いを受け止めた娘たちは1人、また1人と、やがて全員が長岡から巣立っていきました。そして、3人が新潟を離れている間に、中越地方を大地震が襲います。  

地震で大事な蔵が倒壊 「でも、いまはやめられない」

杜氏たちと力を合わせ、葉子さんが守ってきた酒蔵。2004年10月23日の新潟県中越地震で貯蔵蔵と衣装蔵が全壊し、主屋は難を逃れたものの大きな被害を受けました。

「祐子は結婚して2人目の赤ちゃんがおなかにいて、聡子は横浜、幸子は東京にいました。うちはずっと『雪蔵の酒』で売ってきたのに、その酒もダメになってしまって。もうおしまいかと思うくらいひどい状態。『さあ、やめよう』と言ったのは主人でした。でも、私にはやめる勇気がなかった。みなさんがんばっているのに、うちだけ簡単にやめることはできないと思いました。主人に『いまはやめられない』と言ったら『じゃあ、好きにしていいから』と。

とにかく、3年頑張ろうと区切りをつけて。なんでも私は“まず3年”なんです。自分たちだけの力では無理だから、国とか行政の力を借りて。祐子に補助金などを調べてもらって、急いで長岡市役所に駆けつけたら『第1号です』と言われました(笑)」  

「私がやる」と手を挙げた三女

家族や周囲の人たちと手を取り合い、公的な支援も受けながら、どうにか会社を立て直した葉子さん。しかし、ご自身の年齢のことも考え、そろそろ会社をたたもうかという思いが頭をもたげてきました。

葉子さん「55歳を目処に区切りをつけようと思っていて、祐子には何回か聞いてみたけど『継ぐつもりはない』と。それについて私は残念という気持ちもなくて。その子が選んだ道だから、それでいいと思いました。

家業をやめるのは何年もかかることですから、娘たちには早めにと『そろそろやめますよ。その準備を始めようと思う』とそれぞれにメールを送ったんです。そうしたら、ニューヨークにいた幸子から『私がやる。だから、やめるのをやめて』というメールが届いたんですよ。まさか三女が手を挙げるなんて、誰も想像していませんでした」

祐子さんはそのとき東京で子育て真っ最中、聡子さんは結婚して長野県にいたそう。家庭に入られたおふたりですが、いつかお母さんと一緒に仕事をしようと思ったことはなかったのでしょうか。 祐子さん「それが……、まったくなかったんです(笑)。母が会社の経営に入ったとき、私は大学1年生で長岡を離れたばかりで、最初のころは全然見えていなかったというか。祖父も父も政治をやっている家だったので、酒造が家業という気持ちも少なくて。母も自立を願っていたので、外に出て働くことを考えていました」

聡子さん「私も最初はまったく同じです。まだ高校生だったので……」

葉子さん「私自身、あまりに大変だったから、娘たちにやらせるのは難しいと思っていました。嫁に来た私はやらなきゃという責任感でやっているけれど、私の代で終わりにしてもいいかなと。自分の心の中ではね。娘たちもそんな気持ちをわかっていたんじゃないかなと思います」

 左から次女の聡子さん、長女の祐子さん、そして葉子さん。

葉子さん「幸子は非常におもしろい子で、貿易に携わりたいと言ってアメリカで勉強していたんです。『じゃあ、わかった! やると言うならやるなとは言いません』と言うと、『すぐ帰るから』って、本当に1週間くらいで帰国したのにはびっくりでした。行動がすばやい!(笑)」

祐子さん「聡子は私の1歳下、幸子は7歳下なのですが、幸子が家業を継ぎたいなんて予想外のことでした。貿易の勉強をして、日本酒を含め日本のいろいろな商品をアメリカで販売したいという、それだけは少し聞いていましたけど、まさか帰国してやろうと思っているとは。年が離れているから小さいころの印象しかなくて、『え?できるの?』という不安もあって。ちゃんと社会人として独り立ちできるようになるまでは、期間限定で応援しようと思いました」

「私も手伝いたいな」と嫁入り先の長野県からUターンした聡子さん(左)と、東京を中心に全国各地で営業を担当する姉の祐子さん。

葉子さん「さっちゃんはね、『そういえば、うちは酒屋だった!』って(笑)。幸子がやると言って事態は急変しました。祐子は私が東京で営業をするときに手伝ってくれていたので、その厳しさをいちばんわかってくれていたから、妹ひとりに任せておけないという気持ちがきっとあったと思います」

祐子さん「当時は私の子供たちふたりとも保育園に行っていて。家で簡単な仕事をしていたのですが、それをやめて家業に加わることにしました」

葉子さん「そうしたら『私も』って聡子まで。『えー!ちょっと待って』って。みんな突然なんですよ(笑)。それで私が長野に行って話をして。そこからは嵐のよう。もう8、9年になるかしら。いまも嵐ですけど(笑)」

聡子さん「私は1年くらい後に加わったんです。結婚して長野県の上田で暮らしていましたが、けっこう近いので頻繁に長岡に帰省していて。幸子がここで仕事をし始めて、みんなでがんばって働いている様子を知り、当時はおなかが大きかったのですが、いつか私も手伝いたいなと思うようになり。主人も『いいよ』と言ってくれたので、家族で長野から引っ越してきました」

葉子さん「実家を助けたいという思いがあったのでしょう。私もだんだん蔵のほうに入っていくようになって、中を取りまとめてくれる人が必要だったし、聡子が事務の仕事を仕切ってくれて本当に助かっています」  

突然の悲劇、そして長女の決意

ところで、娘たちの決断について、父である社長からはどんな反応があったのでしょう。

葉子さん「主人は『うん、やれば』って(笑)。自分が退いた後の口出しはしないので、その点はとてもいいですよね。私たちを信頼して任せてくれました。

みんなが会社に入ったとき、それぞれの分野で活躍できそうだと思いました。祐子は落ち着いて、人の信頼を得て営業活動ができる、聡子は事務をしっかり仕切れる、幸子はすごいアイデアで突拍子もないことをやってくれる。3人それぞれ得意なことを活かしてやってくれるだろうなって」

 「娘たち3人それぞれの個性があり、役割があったんです」と葉子さん。

葉子さん「小さいときは、祐子は長女らしくておっとりしていて面倒見がいい。聡子がいちばん元気。小回りが利いて運動神経がいい。幸子は昔から、突拍子もない。将来が想像つかない子。三姉妹はいつも一緒にくっついていました。幸子だけ年が離れていたので、特別な存在でしたね」

聡子さん「私が幸子をずっとおんぶしていたんです。母が仕事で付き添えないときは私が学校を休んで、幼稚園の遠足にも保護者として一緒に行ったり(笑)。かわいい妹でした」

下ろされようとしていた長谷川酒造の看板に「ちょっと待って」と三女が手をかけ、妹思いの長女と次女も加勢し、三姉妹が一緒に家業を支える体制がスタートして5年。試行錯誤を繰り返し、少しずつ販路を拡大していきました。

そんな矢先、きっかけとなった幸子さんが29歳の若さで急逝。家族全員が大きな喪失感に包まれることになりました。

葉子さん「幸子が亡くなって、もう4年半になります。そのときは、私の中で仕事を続ける意味がなくなってしまった。娘3人で結束してやっていたから、その中のひとりが欠けるなんて……。祐子も聡子も同じ気持ちだったと思います。幸子がいないのにやる意味がない、働く意味がないと」

 2012年3月に開催された「新潟淡麗 にいがた酒の陣2012」での愛らしい三姉妹。中央が幸子さん、左が次女・聡子さん、右が長女・祐子さんです。写真提供:長谷川酒造

葉子さん「3年半くらい幸子は会社の仕事をやってくれましたが、三者三様、それぞれ違う役割の娘たちですから、祐子はお得意様の信頼を勝ち取る、幸子はなんだか楽しいから人が集まる、聡子はそれを取りまとめる。それぞれ目いっぱい、120%の仕事をしてくれていた。いや、120どころではないかも。土日も関係なく本当によく働いてくれて。誰が欠けても、もうダメだったんです。1人欠けるというのは、みんないなくなるのと同じことでした。

だけど、日々動いていく中で、『家にいてどうするの』と叱咤激励してくれる人もいました。『ゆうちゃん、御近所に挨拶に行くから一緒に来て』と祐子と一緒に近所をまわって。外に出て区切りをつけるという感じでしたね。

長谷川の親戚には女性が多くて、義父の長谷川信は12人きょうだいで、お義父さんを除いて全員女性。そのおばさんたちがやさしくしてくれて『あなたたちががんばってこの家を継いでくれてありがたい。ちゃんと見てるよ』と。

そして、しばらくして祐子が『私がここを継ぐ』と言ってくれました」

  長女で次期当主の長谷川祐子さん

祐子さん「いまでこそ女性が蔵を継ぐことが当たり前になっていますが、少し前まではいなかったし、まさか自分がとイメージが結びつかなかったのですが、幸子が『私がやる』と言ったとき、ようやくそれが直結したんです。

幸子が亡くなり、最初は私もとにかく流れで仕事をしている感じでした。打って出ようという気持ちが芽生えるまで、すごく時間がかかってしまって。やることが押し寄せてくるのを、こなしているだけでした。幸子と店頭に立って試飲販売をやってましたから、それを思い出してなんだかボーッとしてしまうこともあって。そんな状態だと、仕事もどんどんなくなっていくのですが、気持ちを切り替えるきっかけがずっとなかったんです」

 主屋の試飲スペースに置かれた長谷川酒造の商品群。


 長谷川酒造の看板銘柄「越後雪紅梅」。

三女がつないでくれたもの

落ち込むばかりの家族に、立ち上がる元気を与えてくれた出来事がありました。

祐子さん「あちこち飛び回っていた幸子が最後に旅した国がドバイでした。ニューヨークからドバイ経由で突然帰ってきて、『え?ドバイに!?』って。私も幸子もお酒が好きなので、夜にふたりでお酒を飲みながらドバイの話を聞きました。

その後しばらくして亡くなったのですが、少ししてドバイにお酒を輸出できることになったんです。たくさんの蔵元を回っている日本酒ソムリエの浜田竜二さんがうちのお酒を選んでくださって。そのときはまだ幸子の話をする気分になれなくて。実際に輸出にたどり着くまではその後1年くらいかかり、実現するかどうか不安なこともあったのですが、なんだか幸子がこの話を持ってきてくれたんじゃないか、そんな気もするくらいビビッとくるものがありました」

“SAKE”を世界の食卓に!ドバイの若き日本人ソムリエが夢見る日本酒の未来

祐子さん「輸出は最初、幸子がやっていました。海外進出は今後も考えたいですね。国内は飽和状態ですが、海外はアメリカ以外まだまだこれから。市場がどんどん伸びています。ドバイ以外でも、少しずつではありますが輸出も増えてきています。もっとたくさんの方に飲んでいただきたいですね。

それから、新しい蔵を建てて『吉幸蔵(きっこうぐら)』と名付けたんです。初代当主の重吉、歴代当主の彌吉の『吉』と幸子の『幸』を取って。そんな蔵もできて、ぼんやりしてられないなと。『私がやらなきゃ!』と思ったのは、その2つの出来事が大きかった。幸子は本当によく動く子だったので、2倍働かなきゃいけない、それくらいの気持ちで動こうと、そのとき思いました」  

次期当主として。長女の新たな挑戦

迷いが吹っ切れ、ついに、長谷川酒造の次期当主になることを決意した祐子さん。東京の酒屋、 リカー・イノベーション と一緒に企画・開発した新銘柄「ながおかのほし 特別純米酒」には、特別な思いが込められています。

 「長岡を照らし、長岡と共に歩んでいく」という、祐子さんの思いが込められた「ながおかのほし 特別純米酒」。

祐子さん「リカー・イノベーションさんに今回『どんなお酒を作りたいですか?』と聞かれて、どうしてもまた幸子の話になってしまうのですが、『気持ちはよくわかりました。出し過ぎるのはよくないけれど、その思いを少し反映します』と言ってくださって。このラベル、実は3つの星をちょっとだけ大きくしてもらっていて、私と聡子と幸子なんです」

このお酒が飲めるのは、リカー・イノベーションが運営する東京の4ヶ所と埼玉・大宮、千葉・船橋にある「KURAND SAKE MARKET」だけ。「商品がもう完売してしまうくらい、大人気でした。『来年はもう少し多く作れたらいいね』なんて話しています」と祐子さん。  

新銘柄『NAGAOKA』、そしてこれからのこと

今年の冬が待ち遠しくなる、新しいプロジェクトの話も祐子さんが聞かせてくれました。

祐子さん「 日本酒応援団 というベンチャー企業があり、県ごとに1つの蔵をピックアップして、その土地のお米を使い、地名を銘柄にしたお酒を作っているのですが、新潟代表として今年の仕込みで『NAGAOKA』という銘柄を作ることになりました。お米は越淡麗。ワインでもテロワールと言いますが、それほど大規模でなく、土地のお米を使って、地域性を活かしたお酒を作りましょうというコンセプトです。来年2月にはお披露目したいと思っていて、長岡でも販売しますよ」

 左から埼玉県代表『AGEO』、石川県代表『NOTO』、大分県代表『KUNISAKI』、島根県代表『KAKEYA』。ここに新潟県代表『NAGAOKA』が加わります。

現在、東京を拠点に営業活動をされている祐子さんですが、故郷・長岡をどう見ているのでしょう。いつか戻るご予定はあるのでしょうか。

祐子さん「長岡にいたときは、酒造という家業がそれほど珍しいことだと思っていなかったのですが、外に出てみて、ほかとはちょっと違うんだなと改めて意識しました。遊びに来た友人に、『え!ここはどこ?タイムスリップしたみたい』と言われたりして(笑)。田舎のゆったりした感覚と都会のスピード感はまったく違いますし。そんなギャップも感じつつ、外から長岡を見ることができてよかった。そして、いつか戻ってきたいと思っていますが、ひとりで関東を中心に営業をやってますから、それをやれる人がいなくなるのも不安。それができる体制になればと思います」

葉子さん「そろそろ祐子に譲りたいという気持ちはあるのですが、もうちょっとですね。私はいま製造が気がかりで、2、3年でとてもよくなるだろうなという気がするので、若い蔵人たちがある程度になるまでは見届けたいですね」

聡子さん「私は、姉が外に出てがんばってくれているのを支えていかれたら。会社の中がしっかりしてないと安心して営業できませんから、私はここでがんばります。10年くらい事務をやっていたので、この仕事は得意ですし、副業のような形でお菓子作りを教えていたので、土日なしの生活にも慣れていますよ(笑)」

 事務所ではいつも聡子さんが笑顔で迎えてくれます。

葉子さん「これまで築いてきた関係もあるので、祐子の拠点を長岡にすっかり移すのは難しいかもしれません。いくつかの拠点を行ったり来たりということになるかもしれないし、だからこそ聡子の役割も重要。娘2人ならやれるかなと思っています。

長谷川の家は『伝統を受け継がなくては』という気風はそんなに強くないのですが、うちの歴史はどんなものだったのだろうと祐子とふたりであちこち調べに行き、ようやく天保13年12月創業だとわかって。そうやって調べたり、いろんな人の話を聞いたりするうちに、最初の感覚とは違ってきたんですよ。やはり、ずっと続いてきたものを私の代で終わらせることはできないなと。とにかく次へ。そこで祐子が決断して、なにをするのもそれはそれでよし。175年続いたものを、私はやっぱり途切れさせたくないという思いがとても強くなっていきました」

前列左から2番目が三姉妹の祖父、旧制長岡中学(いまの長岡高等学校)時代の先代・長谷川信さん。昭和8年くらいの写真だそう。右側の意匠は長谷川家の家印「長の字鶴」。

葉子さん「蔵に入ると、昔のものがいろいろ出てくるんですよ。そのときの棟梁が書いた文字があったり、瞽女(ごぜ)さん(注:新潟県を中心に三味線を抱えて各地を巡り、歌うことを生業にしていた盲目の女性たちの総称)が来たときに泊まる部屋があったり。歴史を知れば知るほど、やめられなくなります。やめる責任を負えないわって。あとは祐子にお任せ(笑)」 「伝統を守る」のは容易いことではなく、先人たちも数多の困難を経てつないできたのでしょう。いくつかの場面でもしかしたら途切れていたかもしれない長谷川酒造のリレーは、しかし、これからも続きます。母から渡されたバトンを受け取る次期当主の祐子さんは、この先どんな展開を見せてくれるのか。そのバトンタッチにエールを送る日は、もうそんなに遠くないのかもしれません。

Text: Akiko Matsumaru Photos: Tetsuro Ikeda (PEOPLE ISLAND PHOTO STUDIO)

長谷川酒造
[住所]長岡市摂田屋2-7-28
[電話]0258-32-0270
[営業時間]9:00~16:00 ※酒蔵見学は要相談
[定休日]土・日曜、祝日
[HP] http://www.sekkobai.ecnet.jp

  長谷川酒造については、こちらの記事もどうぞ。→  越後長岡の風情と芳香に浸る、醸造の町・摂田屋巡り【2】星野本店〜長谷川酒造編